北國とおり町は、代々築きあげられた歴史と、
現在の新しい文化が共存しており、
古いものと新しいものに出逢える町です。
北國とおり町は、代々築きあげられた歴史と、
現在の新しい文化が共存しており、
古いものと新しいものに出逢える町です。
小松市は平安時代に花山天皇が巡幸した際、梯川のほとりにマツを植え「園の小松原」と呼ばれたのが地名の由来とされています。
江戸時代になると加賀藩第三代藩主前田利常が隠居地として小松城に入城し、
那谷寺を再建するなど数々の寺社を造営し、伝統工芸などの産業を振興しました。
また、小松城近くには北陸道と中山道を結ぶ北國街道があり、近隣では絹織物や茣蓙の問屋が立ち並びとても賑わっていました。
そして龍助町・西町を走るこの街道は、とても急なクランクがありました。
北國とおり町のロゴはこのクランクをモチーフにしています。
このクランクの通りは昔と変わらず、現在も生活道路として存在しています。
なぜ、このような急なクランクが存在するのかというと、小松城に攻め入る敵からの奇襲などを防いでいたと伝えれています。
このように昔からある古い建物や伝統文化を大切に守りながらも、新しいものや考え方を採り入れていき、
次の若い世代へと繋ぐという意味「昔から現代へ、現代から未来へ」が北國とおり町のロゴには込められています。
小松市は平安時代に花山天皇が巡幸した際、梯川のほとりにマツを植え「園の小松原」と呼ばれたのが地名の由来とされています。江戸時代になると加賀藩第三代藩主前田利常が隠居地として小松城に入城し、那谷寺を再建するなど数々の寺社を造営し、伝統工芸などの産業を振興しました。また、小松城近くには北陸道と中山道を結ぶ北國街道があり、近隣では絹織物や茣蓙の問屋が立ち並びとても賑わっていました。その街道沿いにある龍助町・西町を走る旧北國街道界隈の道はとても急なクランクがあります。北國とおり町のロゴはこのクランクをモチーフにしています。このクランクの通りは昔と変わらず、現在も生活道路として存在しています。なぜ、このような急なクランクが存在するのかというと、小松城に攻め入る敵からの奇襲などを防いでいたと伝えれています。このように昔からある古い建物や伝統文化を大切に守りながらも、新しいものや考え方を採り入れていき、次の若い世代へと繋ぐという意味「昔から現代へ、現代から未来へ」が北國とおり町のロゴには込められています。
歴史は古く、北陸道と中山道を結ぶ北國街道沿いにあり、絹織物や茣蓙の問屋が立ち並ぶ商人町でした。1785年には155軒もの家があり、今も昔も変わらず賑わいがあり、落ち着いた街並みの中で歴史や伝統文化を感じながらも、色々な人との出逢いがある町です。
人口 | 106,889人 |
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面積 | 371.05㎠ |
75歳以上の割合 | 12.9% |
市の木 | マツ |
市の花 | ウメ |
人口密度 | 288人/km2 |
製造品出荷額 | 6798億円(県内1位) |
毎年5月中頃に子供歌舞伎で有名なお旅まつりが行われます。お旅まつりでは、京都の祇園祭のように絢燗豪華な曳山(山車)が町を巡ります。曳山はそのまま小さな歌舞伎舞台となり、町の辻々で子供たちが大人顔負けの迫真の歌舞伎を披露します。8基の曳山(山車)が一度に集まる「曳揃え」は迫力がありながらも綺麗な風景はおすすめです。
北國とおり町には商人文化の歴史を今に伝える「こまつ町家」が数多く残っています。建物の特徴には、虫籠と呼ばれる格子や屋根の小松瓦、風雨をしのぐ下がりなどがあります。特に、火事の延焼を防ぐ「袖壁」下部の梁先端の銅板飾りが粋で、小松の町家大工のこだわりを感じさせます。町を歩く際には、このような場所も見ながら歩いていただければより一層町家を感じることができます。