町で生まれ、生きてきた歴史をお聴きし、その中から次の町をつくっていく糧を発掘していく『北國とおり物語』の初回。
360年以上の歴史あるお茶屋「長保屋」の12代目長谷部英夫さん(66)より、生まれた時からから小松のお茶と接し、龍助町で生きてきた物語を伺いました。
1652年、加賀藩3代前田利常が小松城に隠居の際に、長谷部理右衛門にお茶を栽培させたのを機に、長保屋が開業。
現在その歴史は、12代目の長谷部英夫さんに引き継がれてる。
英夫さんは、昭和26年11代目の二人兄弟の次男として生まれ、遊び場としてお茶の工場に出入りし、幼少期からお茶の生業が染み付いていた。
長保屋のお茶は元々、小松市内の金平(現金平町)や瀬領(現瀬領町)で栽培されていた茶葉を焙煎し販売。
「加賀棒茶」の製造は、オリジナルブレンドとして100年ほど前から始めたのが、長保屋である。
現在は12代目に焙煎、ブレンドの技術が受け継がれ、品質の良い、静岡、宇治、伊勢から茶葉を素材につくられ、長保屋のお茶として親しまれている。
そんな長保屋のお茶は、どのような特徴があるのだろうか。
「同じ加賀棒茶いうても、味も香りも違います。
自分ちの焙煎と、他のうちの釜が違う、ほうじ茶にする釜が違う。
方式が3つある、遠赤外線、砂煎り釜、直火炊き、
その釜のどれをつかうかによって、いろいろ違ってくる。」
長保屋はその中でも、手間のかかる砂煎り、直火でお茶を焙煎している。
「(砂煎りは)砂をバーナーであっためる、熱い砂の上をお茶が通っていくんです。
一緒に茶葉を合流させるんです、そして分離させるんです。
砂煎りが美味しんやけども、ただちょっとやっかい。
砂煎りも使うし、直火も使うし、ブレンドもする。うちは遠赤は使わない。」
長保屋の煎り方
お茶の煎り方の種類>釜が違う、3種の煎り方
・遠赤外線(近年の方法)
・砂煎り(砂とバーナーであたためる)
・直火
>長保屋は、砂煎りと直火(2種の調合もある)
子どもの頃、お茶の工場で遊ぶことが多かった英夫さんは、自然とお茶を詰めたり、大きくなってからは配達のお手伝いもし、仕事が自然と身についていきました。
勉強が得意だった長男は、工場に入ってくることはあまりなかったそうです。
「まぁ、自分ちの仕事場やから、工場が半分遊び場やったから、工場の作業する人もいたんです、その横で私はみとったり、手伝ったり、半分遊び感覚ですよ、ある意味、自然やね、ずっとみとったから。
時間がある時はなんとなく、工場でどんな作業しとるかなんとなく見てたし、お茶を一緒に詰めたり、配達とか一緒に行ったり、結局自然とそんな感じやったよね。
区切りがあってしたわけじゃなくて、ある意味で自然になんとなくお茶屋さんはなにしているか、ほうじ茶つくるには、横で見てればいやでも分かる話ですから、それが時間とともに、工場の方がしとったのを、あるいみ自然とあれしとったかな。
私はむしろ工場で遊んどったけど、兄貴は工場にはこなかったね。
そこらへんから違ったかな。本当に自然現象。」
英夫さんは工場でのお手伝いのほか、電気系の機械にとても興味があり、自作でラジオ製作や、アマチュア無線で見知らぬ人と交信するなどしていました。
お茶づくりとは縁遠そうですが、中学、高校の頃から後を継ぐと心に決めていたそうです。
それは勉強が得意な長男の後ろ姿をみてなんとなく、英夫さんの高校時代に、大学を卒業し高校の先生になったのをみて、決心に変わったそうです。
後を継ぐと決心した英夫さんですが、とにかく好きな電気系の勉強だけでもしたいと、大阪の理工系の大学へ進学します。
そして昭和53年、大学卒業後に小松へ帰り、長保屋で仕事をはじめ、12代目になりました。
ただ、この日から12代目という明確な日はなかったそうで、
「区切りはないんやけど、徐々にというか、昔は工場に来とる人おったから、その人が年になればリタイアやから、自分がするしかない。今は、細々とやっとる。」
生まれながらに染み付いた長保屋の仕事、歴史が、英夫さんを12代目へ自然と導いたようです。
幼少期から自然と身についていたお茶の技術があったものの、歴史ある技術を受け継ぐには大変ご苦労されたのではないかと伺うと、
「全然勉強してない。
私、お商売とか、パソコンとかお勉強ということをしたことない、変な人間やけど。
だから、普通一般的な話が、みなさんこう、お勉強、パソコン一つするにしても教室行ってとかね。
(私は)勉強したことがない。成り行きで。全部、勉強しないから、
オールマイティやから、ひょっとしたら違ごとるかもしれんよ。」
笑いながら語る英夫さん。
昭和53年ごろ、英夫さんが小松へ帰った頃は、まだ全盛期と比べて規模は小さくなっていたものの、小松でお茶の栽培されていたそうです。
「うちの先祖の時代、この地元でもお茶の栽培が盛んだったみたい、それも私が生まれる前やからわからない。私の比較的小さい頃は、今でいう、打越、月津、瀬領、金平とかそこそこつくってました。今はほぼゼロですね。
小さい頃、まだありました。
2~30年前ごろまでまだあったけども、生産コストと、お茶屋的に言うと、この地方でつくるお茶よりも、静岡とか宇治の方が品質も良く、コストも安い。ビジネスとしたら、成り立たない。
だから、売れる産地は、性能良くしとるけど、こっちは採算合わんからやめるわみたいね、ということですね。高く売れる状況があれば、農家さんも作ろうとなるけど、そうならない。」
小松産のお茶は姿を消したが、現在は静岡、宇治、伊勢よりお茶の葉を仕入れ、昔より引き継がれてきた調合、製造法でお茶を煎っている。
また、12代目英夫さんは新しいことを積極的に取り入れ、特にお土産品開発では伝統的な着物の模様をあしらった缶入りにするなどし、販路は石川のみならず、東京の銀座や浅草でも長保屋のお茶が扱われている。
1652年創業の長保屋、英夫さんは最近になって町や店の歴史を知る機会が増えているそうだ。
中でもお寺の住職さんが来られるたびに、大事にせんなんと仰る、木彫りの仏像が置かれた仏壇がある。
小松中心部で、昭和5年、7年と合計2000棟が焼ける大火があり、長保屋も全焼したそうだ。しかし、そんな中唯一先祖がいの一番に持ち出したものが、仏壇である。
「小松には昭和の初期に大火があって、芦城、稚松校下が丸焼けで、
その直後にみんな同じような形で、小松町家でやってますけど、建て替えしてない限り、同じ形式のうちがザーッと建っとるわけ。
昭和10年ぐらいの時に、ほぼ一斉ぐらいのタイミングで、それが今の小松町家。
ちょっこ古民家風のうちは、みんな同じタイミングで。
生まれる前ですね。
仏壇以外、ほんとゼロです。蔵もあったらしいですけど、最終的に燃えちゃって、それ以前であるものはお仏壇しかないげん。
お仏壇は、火事の時昔運び出したんです。
火事やと思ったら、まずお仏壇を運び出すのが昔の考え方、お仏壇の掛け軸は、300年ほど前のもの。掛け軸にあるお坊さんの名前を辿っていくと、300年経っているとわかる。」
英夫さんはお話の中で「自然と」という言葉を多く使われた。
幼少期に工場で遊びながら仕事を学んだこと、兄の姿を見て後を継ぐ決心をしたこと、12代目になったことを「自然と」そうなったと。
龍助町のまちづくりについて「なんにもしなかったら当然マイナスで行くから、プラスで行くにはどうしたら」と仰った。長保屋のこと、龍助町のことに対して、今だけではないこの先にどうやって繋げていこうかという強い想いが垣間見えた。
長保屋がお茶を煎るとき、龍助町がお茶の芳ばしい香りで包まれる。
最近では、その香りがする機会が増えているそうだ。
[ヒアリング・文・写真] 田村 薫